2026年3月28日「NHKファミリーヒストリー」に俳優の國村隼さんがご出演されました。
今回の番組では、國村隼さんの少年時代や祖父母の悲劇や苦難の道が描かれました。
今では俳優として渋くてかっこいい國村隼さんですが、父母や祖父の事、少年時代は何があったのかどのように過ごされたのか気になったので記事にしてみようと思いました。
この記事を読むと
父はどんな人?
母は素敵な人?
祖父は宮大工と実業家?
がわかります。
國村隼の父とは?

父親の名前は米村洋さん、大変苦労が多かった。
國村隼さんの父親の米村洋さんは「苦労続きで暗い境遇」にありましたと表現されています。
なぜなら
父方の祖父・米村勝蔵さん(國村さんの祖父)は戦前、パラオで宮大工として活躍していましたが戦争で亡くなられたそうです。
このことから國村隼さんの父、米村洋さんは
・大黒柱の父(國村さんの祖父)を失った事
・父(國村さんの祖父)なき後、残された一家
・パラオと言う異国の地である
・極めて苦しい生活を強いられた
と、苦労の多い人生を過ごしてこられた事がわかりました、戦争と言う状況で突然父親を亡くされた事を思うとその時の気持ちはどのような苦しさだっだのでしょうか。
その後父、米村洋さんは結婚され、國村隼さんが生まれます、子供を育てられるにあたりこのような悲劇や苦労がとても影響していた思います。
その時代、表には言えない辛く悲しい苦労がありました。ここは國村さん本人が少年時代に感じた貧しさや孤独の背景に深く関わっていると感じました。
令和7年4月、洋さんは93歳で逝去されました。亡くなる前には、あらためてパラオでの記憶を語られていたそうです。
最後まで息子の活躍をずっと陰で応援されていた事が目に浮かびます。
國村隼の母とは?

國村隼の母親は?
母親の名前はリツ子さん現在92歳、昭和8年生まれ。快活な性格。
生い立ちは、母方の祖父(國村さんの母方祖父)が借金を抱える生活もありましたがその後努力の末、養蚕業で成功を収られた父母の元、比較的裕福な環境で育ったそうです。
また、母のリツ子さんは快活な性格だったと描写されています、明るく前向きな性格であったことがとても感じますね。
國村隼さんの父と母の出会い
・父、米村洋さん(國村さんの父)も苦労続きで暗い境遇。
・母、リツ子さん(國村さんの母)比較的裕福で快活。
筆者どうして、二人は出会ったの?
では、なぜ二人が出会い結婚したのでしょうか。
番組紹介では、苦労人洋さんに、明るいリツ子さんが好意を寄せたとありますが、明るい人が苦労して影のある人に心を寄せると言う流れはよくあります、ドラマの様な展開だったかもしれませんね。
リツ子さんとパラオ帰りの米村洋さんは八代高等学校で出会い高校時代から交際を始められたとの事です、楽しい青春時代を過ごされたのですね。
高校卒業後、洋さんは家族を養うため小学校の助教諭として働き始め、リツ子さんは地元の病院で看護助手に。
洋さんと結婚する事は、脳梗塞となってしまった寝たきりの母を看病したり妹や弟の面倒を見ると言う事もあり家族の反対を押し切って、昭和29年にリツ子さんは洋さんと結婚したそうです。



大恋愛だったのですね。
結婚後は夫婦で共働きをしながら、必死に家族を支えて養なったそうです。
力を合わせて生活を守り國村隼さんを育てあげられ、國村隼さんの深い演技はこのような家庭環境とも繋がっているかもしれませんね。
<母リツ子さんの結婚後>
・熊本県八代市で長男・喜洋(國村隼)さんが1955年11月16日に生まれる。
・1歳頃に兵庫県尼崎市へ引っ越し
・ 小学校2年時に大阪市へ移住
・家族は貧しい生活を送る
・喜洋(國村隼)さんは独りぼっちで過ごす時間が多かった。
少年時代の思い出として「酢飯」や「クマのぬいぐるみ」が番組で取り上げられました。
生活は、両親は共働きで家計を支えている様子だったので、酢飯やクマのぬいぐるみが國村隼さんの心の拠り所となっていたそうで両親の忙しさや少年時代の寂しさがとても伝わりました。
あのカッコ渋い國村隼さんから「クマのぬいぐるみ」と言うワードが出たと言う事に、その時代の心支えであったと感じ、心がとてもほんわかしますね。
リツ子さんは誰よりも息子のことを誇りに思っているそうです。
父と母の歩みがあったからこそ國村隼さんという俳優の深みや静かな存在感、人間味が生まれたのだと感じました。
國村隼の祖父は宮大工と実業家って本当?
國村隼さんの父方の祖父
父方の祖父・米村勝蔵さんは宮大工だった父の跡を継ぎ宮大工の道へ進みました。
昭和3年に家族でパラオへ行き神社を建てる仕事に携わり安定した収入と静穏で穏やかな暮らしがあったそうです。
ところが大平洋戦争で大きく変わってしまったそうです。
祖母・スナさんと子どもたちは日本へ引き揚げることになりましたが、ここから番組で知るほどに想像を超える過酷なものであったとわかりました。
昭和19年7月25日、帰国しようと船に乗り込もうとした時にアメリカ軍の機銃掃射が船を襲ったそうです。
ただ「戦争があった」と聞くのと実際にその恐怖の中を生き延びたと知るのとでは重みがまったく違いました。
命からがらパラオがら日本へ船へ渡り神戸に到着しましたが、パラオに残った勝蔵さんは臨時召集され、37歳で亡くなったそうです。
37歳という若さで人生を終えたことや家族を残して別れなければならなかったことを思うと胸が詰まるような気持ちになりました。
國村隼さんがスタジオで、とても辛そうな表情で「知っていることもあれば、まったく知らなかったこともあった」と話していたのも印象的で、尚悲しい気持ちになり戦争の非情さに言葉もでません。
宮大工とは
宮大工(みやだいく)は、神社仏閣の建築や補修に携わる大工。
世界遺産、国宝や文化財指定の建造物はもとより、その他文化的に貴重な建物の建築や補修などにも携わることから、建築学はもとより、時には宗教学や史学など非常に幅広い知識や高度な技術を必要とすることから大工の最高峰とも言われている。https://マイナビ宮大工
このような、高度な職人技と誇りを持ってパラオで活躍されていた方が戦争で突然お亡くなりになられたと言う事はとても心が痛み残念でなりません。
ここまでの技術を習得するのにどれだけの努力と時間がかかったことでしょう、それが父や祖父母であったと思うと無念でしかありませんね。
この戦争によって家族の運命が変わってしまい、貧困や苦労へと繋がって行ったという事実がありました。
國村隼さんの母方の祖父
母方の祖父は、蚕を育てて絹を生産する養蚕業を営む実業家でした。
養蚕の歴史的背景と養蚕技術の普及
中国から伝わった養蚕が日本に根付いた背景には、日本の風土との相性の良さがあります。蚕のエサとなる桑は、日本の大半の地域で比較的管理、栽培しやすい植物です。また、農閑期を利用して養蚕作業を行うことで、農家にとって貴重な副収入になりました。https://マイナビ
國村さんはインタビューで、両親の戦争体験が自身の価値観に影響を与えたと語っています
(例: 「戦争を体験した世代は、世の無常さや社会に対して基軸を持っていないとブレてしまう」と)
まとめ
國村隼さんの家族の歴史は悲しみや苦労が多かったと思われ、寂しい少年時代を過ごされてきました。
でもその中で母親の明るい存在や、酢飯、クマのぬいぐるみと言う心がホッする時もあったようで、それらが全ての存在が今の演技の深さや優しさに繋がっているのだと思いました。
家族の環境は人生においてとても重要だと思いました。
そして今の平和に感謝したいと思いました。









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